KOTOKO@Tokyo Filmex

Cocco主演、塚本晋也監督作品「KOTOKO
TOKYO FILMEXで見てきましたよーーーー!!!!

言いたいことはたくさんあるのですが、とりあえず今の純粋な感想を書きました。
レビューというよりは思ったことを垂れ流して書いたという感じなので
あまり何も参考にならないかもしれません。
触発されて感じたことを書いた?という感じ。自己解釈です。
私はこう思ったという話です。

そのほかの細かいレポはまたします。



ネタバレるのでたたみます。






生きているということは誰でも平均台の上を歩いているようなもので、
だけど私たちはそれを知らずに、もしくは忘れて、なんてことなく平気に歩いている。
どんなに危険な状況だったとしても、知らずにいれたら通り過ぎてしまえば終わる。
気付きさえしなければ、みんなそれなりにやっていける。
ある一定の基準より鈍感であるということは、生きていく上で何よりも大事な要素の一つだ。
私たちはその程度の差はあれど、その自己防衛本能としての鈍感さを持って生きている。
生きながらえている、と言ってもいいかもしれない。
それは、のんきでお気楽な日常を幸せにやり過ごすためには必須の力だと言っても良いと思う。
程度が過ぎると、それはひどい害悪となるわけだが、それはまた別の話で此処では触れない。


KOTOKOは、人生が平均台だと気付いてしまった、あるいは気付かざるを得なかった女性である。
その自己防衛本能としての鈍感さには個人差があるから、それが元々希薄だった女性とも言えるかも知れない。
でも、その危うさはきっと誰でも持っている。気付いて居ないだけだ。気付かないほうがいいだろう。
そのほうが幸せだろうと思う。だけど、気付いてしまうことがある。気付かされてしまうことがある。


KOTOKO自傷も田中に対する暴力も、全てが「石橋を叩く行為」だ。
生きていることを確認するために切る。どんなに痛めつけてもここにいるということを確認するためにボコボコにする。
生々しく血が流れる。その鮮血の色が、証明してくれる。
「魚のようなにおい」が、生臭い血の匂いが証明してくれる。
それでもKOTOKOは石橋を叩き続ける。安堵したいから。(でも絶対に安堵は訪れない)
安堵が訪れないことを証明するためにどこかに行って欲しいから。(でも本当はどこにも行って欲しくない)
欲しいのは揺るがなさ。欲しいのは絶対。絶対は手に入らない。入らなかったと知っている。
絶対な愛も絶対な安全も何処にも無い。絶対に守れることなんて何処にも無い。
だけど不安だ。不安だ不安だ不安だ。どうしたらいい。守れない。守りたいけれど守れない。だからぶち壊す。


KOTOKOの行動は滅茶苦茶に見えるけど、筋が通っている。
とても馬鹿に見えるけど、本当は違う。
頭が良すぎるのだ。敏感すぎるのだ。ああ、脳髄が回らなければいいのに。
思考がそんな先まで回りきらなければいいのに。馬鹿であればよかったのに。
そんなこと気にしないで、適当にのんのんとやれればよかったのに。
出来ない。見えてしまうから。出来ない。考えてしまうから。そして全部失った。


全部失った世界でも、大切なものは力強く生きていた。
それが救いだと、救いたる部分だと塚本監督は言っていた。
そうなのだろうと思う。だけど少しだけ残酷だ。どうしてそこにより添えなかったんだろう。
あんなに愛していたのに。こんなに愛していたのに?


"All mothers around the world were once little girls. Kotoko, who Cocco has successfully brought

to life, is not someone special. She could, in fact, be your mother or maybe even you."


海外のレビューか何かに書いてあった監督の言葉である。
「どんな母でもかつては少女だった」という言葉が痛い。
どうして、私たちは、自動的に母親であらねばならぬという呪いに掛けられているのだろう?
どうして、それがとても儚くもろいものであるのに、それを見過ごしされて潰されて、
そこが生々しくもただの平均台であると気付かされねばならぬのだろう?
「出来ない、ちゃんと出来ない」という、KOTOKOの泣き叫ぶ言葉は、
どうしてこんなにリアリティを持って悲しく響いてくるのだろう。
どうして、どうして、どうして小さな少女だった、何も出来ないただの夢見る娘だった私たちは、
人生のある瞬間からそれが「出来る」という幻想を押し付けられ、そしてまた囚われなければならないのだろう?


どうして、愛しているが愛しているだけで上手く行くことができないんだろう。
どうして、ちゃんとやらなければいけないのだろう。
どうして、真っ直ぐ立っていられるんだろう?
世界を取り巻く残酷なニュースは、ただ不安だけを押し付けてきて、
この腕の中に絶対的に守らなければいけない愛すべきか弱き存在が居る時に、
恐怖に震えることが許されないのだろう?馬鹿にされるんだろう?どうしてだろう?どうして?


どうしてみんなは上手くやれるの。どうして私は上手くやれないの。
どうして世界は落ち着いてくれないの。いつまで揺れているの。


それだけの映画だし、それを描いた作品と言うのははじめてであったと思うし、
今のこのこの時代にこの瞬間にこれを提示してくれたことに対して、
描いてくれたことに対して監督の愛を感じたし、何か、なんだろうね。
上手くいえませんが、ありがとうございました。


KOTOKOが脆いんじゃない。みんな脆いんだ。だけど私たちは生きている。
平均台だと気付く瞬間があっても、上手く片目を瞑ったりして。上手くやり過ごしたりして。
だけど誰でもKOTOKOになりうる。

"She could, in fact, be your mother or maybe even you."