東京ドリーム展


東京ドリーム展@山陽堂。

行ってきました。ほぼ自分のためのレポ。





2階と3階を使った展示だけどワンフロアは狭いので見るのはあっという間。
なのだが、そこから広がる世界は無限。


2階は物販と写真のコラージュ、そして絵画が三枚。
絵は今まで見たことがない鮮やかな色合い。黄色と青。力を感じた。
降り注ぐ光や、そこいらに潜む闇とは違う、内側から溢れ出してくる強い力。
透き通ってなくとも構わない、届くといい。届いてる。
溶けて消える言葉よりも饒舌な色たち。


写真はダンスの風景とかかな。笑顔がたくさん見れた。幸せ。




螺旋階段を登ると「言霊展」


東京ドリームとポロメリアの生原稿がまるで天女の羽衣みたいに天井から壁一面に垂れ下がっていた。
足下にはたくさんの「紙風船」や「折り鶴」になった原稿用紙。綴られている物語、言葉たち。


直した跡ももちろんあるけれど、ものすごく少ないというのが印象的だった。
改行も、テンポも、言葉選びもほぼのままに、原稿用紙に綴って行くことは、
パソコンでしか文章が書けない私には信じられないけれどその喜びの片鱗は知っている。


言葉が流れて行く、その生々しく清々しい行為が綴られた跡が
こうして目の前に晒されているのはなんて贅沢なんだろう。
なんて、幸せな空間なんだろう。


本のページの上で、活字で読んだ時に、弾む雨粒のように胸の奥を叩いたあの言葉たちが
この世にはじめて刻まれた瞬間の軌跡を目の前にして、どうして心を震わさずにいられようね?
天井から床まで、その言葉に包まれている幸福、そして贅沢。


そこに彼女が費やした時間を想い、言葉が刻まれた瞬間を思う。
ペンが、あるいは鉛筆が、たてたであろう音を、一気に書く時に詰まる息と、
言葉が溢れたのと同時に吐いた溜息のことを思う。
雨は降っていたかな。ミルクティが冷めてしまったこともあるだろうな。
我に返った瞬間に、夜のシンとした音を聞いたかな?


比べるのはおこがましいが、私も文章を書くことをずっと続けている。
それこそ一年のうち四分の三の週末はほとんど一人でパソコンとキーボードに向かって文字を打ち続けている。
文章を生み出す時に向き合う孤独がどういう類のものなのかは、多分少しは知っている。
歌も歌えなければ踊りも踊れず、絵も描けない私だが、少しだけでも共有できるものがあるのは嬉しい。


それでも、私は何も捨てられないもったいない病で、
例えその文章が活字で印刷され手の中に残る証拠になっても、書きかけの分や、
途中で変更したファイルも含めて、一切捨てることが出来ない。
最終稿だけならまだしも、その途中の、それこそ十いくつにもなるファイルも、
それに費やした時間やその時のことを想うと、何だか名残惜しくて捨てられない気持ちになってしまう。


だから、大きなやり直しのきかない原稿用紙にアナログに文章を綴り、
そして、コピーも取らないそれらを、気前良く全て「捨てる」為の展示に、
目からウロコどころじゃない色々なものが落ちるほど、驚いた。
文章を綴るという行為の意味が違い過ぎて、心臓がぐっと掴まれる想いがした。


Coccoが肩から下ろした荷物を、見届ける証人になれたことをとても嬉しく想うと同時に、
何も捨てられない自分が少しだけ、恥ずかしいのと残念な気持ちに。


今もまっさらなページに、文字を打ち出す瞬間が好きだけど、
もう少し童心に返って、とりあえず原稿用紙を買ってくるところからはじめてみよう。


Coccoちゃんありがとう。表参道は帰り道なのでまた行きます。